My History

歩いてきた道

1962.3愛知県豊田市生まれ
1980.4大学入学祝いで、H68/TRを買ってもらう
1981.?憧れの♪日立ベーシックマスターレベル3購入
1982.5野球ゲーム『中日-巨人戦』、月刊アスキー1982年5月号に掲載
1982.8統合マシン語開発ツール『MIGHTY-3』、同誌1982年8月号に掲載
1982.12『デストロイ・エイリアン』、I/O別冊「ベーシックマスター活用研究」に掲載
1984.4日立製作所横浜工場入所
1986.3同退所
1986.?ランダムハウスRPG『リグラス』のFM-7版移植(ZOBの出口、飯田氏と共同)
1987.1PC World Japanより『EZ Editor』発売
1987.4アーテック入社、『獣神ローガス』製作
1988.3同退社。以降フリー
1988.5ビレッジセンターより『VZ Editor』発売
2000.8キュート『Wonder Witch』BIOS作成
2001.?うるまでるび『UDPaint Live』コーディング(未完成)
2002.?自動点訳・校正支援ソフト『IbukiTen Pro』作成(点訳エンジン開発の弟と共同)
2005.7スクリーンリーダー『JAWS for Windows』日本語化プロジェクト参加
2004.6 - 2007.2 IPAの未踏ソフトウェア創造事業『UrumaDelvi Paint』の開発に参加
2007.11印刷業務管理システム『FACE』コーディング
2008.9中外製薬治験報告システム開発
2010.5iOSアプリ『会計伝票』開発 (未発売)
2012.9顔認識実験アプリ『Spice』開発

入学

 この2冊の本を父親の部屋で見つけたのが、マイコンとの衝撃的な出会いだった。 グリーンモニタに浮かぶエンタープライズ号を思い描きながら、受験勉強から逃避する毎日だった。

H68/TR

 日立のワンボードマイコン。すでにPC-8001やMZが発売されているのに、 なぜこの機種を選んだのか? 大須アメ横ビル2Fの中部本多通商で、すっかり洗脳されてしまったのだ。 「Z80はカスだ」、「BASICなんて要らない」云々…。 しかし結果的に、6800のマシン語から始めたのは無駄では無かった。 「トレーニングモジュール」というだけあって、マニュアルも非常に充実していた。

 「86 05 B7 E0 07 0E」、プログラムの冒頭に書くおまじない(割り込み許可?)のコードは、いまでも忘れない。

レベル3

 「究極の8bitMPU」6809を搭載した日立のパソコン。 アスキー1980年10月号の特集記事と6809の命令表を、食い入るように読みふけった。 6800から始めた者にとっては、まさに「夢のように美しくかつ強力な」命令セットだった。

 しかし、本体とカラーモニター合わせて40万もの資金を、どうやって調達したのだろうか。 私はアルバイトをしたことがない。なんでもホイホイ買ってくれるような甘い親でもなかった。

 6809とは、この後FM-7、日立のS1と、ずっと付き合っていくことになる。

中日-巨人戦

 BASICと一部マシン語で書いた、二人用の野球ゲーム。 初めてゲームを投稿し、カラーページに掲載されたのがとても嬉しかった。 投手側はテンキー、打者側はフルキーで操作し、1回ごとに席を交代する。 当時の中日、巨人選手のデータを登録してあり、打率、長打力、持ち球、球速、制球力もプレイに反映されるため、 かなり熱い対戦になる。弟とずいぶん遊んだものだ。

 ちなみに、このゲームはTAPE ASCIIで\3,500で発売され、それ以降お小遣いに困らない学生生活を送れた。 父は「扶養家族を外されて税金が増えた」と、ぼやいていたが…。

MIGHTY-3

 レベル3用のアセンブラが使い辛かったために作った、6809のマシン語開発ツール。 モニタ、アセンブラ、逆アセンブラ、ソースジェネレータで構成されている。 非常に使いやすいツールだと自負していたが、今思えば自分以外は誰も使えなかっただろう(笑)。 スクリーンエディタの概念が当時まだ無く、ラインエディタである。

 白黒写真では判らないが、命令やレジスタは色分けして表示されている。

 その後、FM-7とS1にも移植し、6809のプログラミングに愛用した。

デストロイ・エイリアン

 見ての通りの、ギャラクシアン。この頃が人生でもっとも熱かった。 「明日はあのルーチンを書こう」、眠る間も惜しいほど毎日が楽しかった。 自転車で通学しながら「ギャラクシアンを完成させるまでは、死ねない…」と本気で思った。

 ところが、完成する直前、I/O誌に別のギャラクシアンが掲載されてしまった。 その名も『GALAXY FLY』。私は打ちのめされた…。 しかし、こちらのギャラクシアンは、ドット単位で動き、PSGボードでBGM(633爆撃隊)も演奏する。 負けるはずは無い。固く信じてとにかく完成させた。

 この憎っくき『GALAXY FLY』の作者こそ、ZOB速水祐氏である。 有楽町で開かれた日立のプログラムコンテストで氏と出会ったことが、その後のプログラマ人生へのきっかけとなった。

横浜工場

 日立へ入所した私は、岐阜、高山での工場実習の後、S1の開発チームへ配属された。 が、時すでに遅く、パソコン部隊は撤収過程にあり、夢破れて2年で退所することになる。 しかし、S1の生みの親の天野主任、S1-BASIC開発の宮脇氏他、素晴らしい人達と出会えた。 彼らを裏切る形で退所したのは、正しい選択だったのだろうか…。時々、むしょうに寂しくなる。

 余談だが、横浜工場富士見寮の寮母さんは、サッカーの奥寺康彦のご母堂だったらしい。 寮はおんぼろの狭い2人部屋だったが、食事はおいしかった。 工場内の食堂のカレーも、病みつきになる旨さだった。

リグラス

 森田将棋でおなじみの天才・森田和郎氏率いるランダムハウスのRPG。 山口祐平氏のデザインで、舞台のように奥行きのある背景が美しかった。 このゲームのFM-7版の移植を、ZOBの速水氏の紹介で請け負った。 Z80のトリッキーなコーディングには、頭をかかえた。

 ランダムハウスのメンバーはみな大食漢で、毎夜高速に乗ってイタリアレストランへ通っていたものだ。

EZ Editor

 VZの前身『EZエディター』は、当時「PC World Japan」というパソコン誌を出していた雑誌社から発売された。 これも速水氏の紹介による。しかし、雑誌社の経営が思わしくなく印税の支払いも滞りがちだった。

 手元に残してあったパッケージは、なんと8インチフロッピー版だった。

アーテック

 山口祐平氏がランダムハウスから独立して作ったソフトハウス。練馬区石神井。

 写真のRPG開発時にはすでに退社していたが、緊急事態で狩り出された。口の巧いプログラマには要注意だ。

獣神ローガス

 当初は山口祐平氏デザインのSF-RPGで企画されたが、結局自分の趣味でゼロから作り直した。 グラフィック関連のツールこそランダムハウス製だが、私とアーテックの絵描き陣(岩田&小川)で作ったゲームだ。

 とにかく「多対多」の壮絶なアクションゲームが作りたかった。 悲しいかな、当時まともな思考ルーチンを書く力が無く、「僚機」はヘッポコだったが…。 高校時代にAHのボードゲーム(特に独ソ戦)にのめり込んでおり、シミュレーション風の味付けも入っている。 マップは、モスクワへ侵攻する東部戦線のイメージだ。

 一部のはまって下さったプレイヤーには、あっけないエンディングをこの場でお詫びする。 この私に、「KING'S FIELD IV」のラスボスを責める資格なんてないよね。(^^;

 ローガスのBGMのうち、ゲームオーバーと攻撃ミッションの2曲は、サイコソニックの作曲だ。 サイコソニックは、「ミネルバトン・サーガ」、「ディガンの魔石」、「ダークレイス」等の 音楽も手がけているが、そのメンバーの一人がASTURIASの大山 曜氏だった。どうりで素晴らしかったわけだ。

VZ Editor

 私をビレッジセンターの中村満社長とひき合わせてくださったのも、これまた速水氏だ。 先生には感謝の言葉もない。

 VZのおかげで、沢山の素晴らしい方々と出会えた。今はもう、昔語りである。 しかし、とりわけ可愛がって下さった矢野徹さん、西田雅昭さんには、今生でもう一度お会いして、お酒をご馳走になりたいです。(^^;

Wonder Witch

 バンダイの携帯ゲーム機「Wonder Swan」にフラッシュメモリ・カートリッジを装着して、 ゲームを自作できる企画が持ち上がり、私がそのBIOSを担当することになった。 実に久しぶりの、それもゲーム関係の仕事なので、はりきって開発した。

 正直言ってBIOS以外の、とくにランチャーを作りたかったのだが、別の担当者がいたので 自作してHPに公開してある。チームの仕事は難しい。

 Wonder Witchの「IL」と呼ばれるOSを設計されたキュートの佐藤氏は、森田和郎氏とともに 私が出会った中で最高のプログラマだ。

 それにしても、「Wonder Swan Color」でTFT液晶を使わなかったことが悔やまれてならない。 試作品の暗くて見づらい液晶を見て、いっきに熱が冷めてしまった…。

UDPaint Live

 「ぶるたぶちゃん」でお馴染みのうるまでるびさん設計のお絵かきソフトを、DirectXベースで作った。 ネットで複数の人が同時に描けたりもした。 Mac版の本格的なペイントツールの作成を依頼されて、Macまでお借りしたが、 私の気力不十分で立ち消えになってしまった。申し訳ないです。

 うるまさんは、CやReal Basicでプログラミングもする、凄い絵描きさんだ。

IbukiTen Pro

 弟が大学院で開発した自動点訳エンジンをもとに、エディタ部分を書き起こした点訳・編集ツール。 学生が作った「IbukiTen Edit」はRichEditCtrlを使って書かれており、それは凄まじいコードだった。 もう少しコーディングの基礎を学生に教えた方がいい。(^^;

JAWS for Windows

 視覚障害者のためのスクリーンリーダー「JAWS」の日本語化プロジェクトに参加させて頂いた。静岡県立大学の石川准教授、IbukiTen Proでお世話になった切明政憲さん他、私を除く4人はみな全盲だ。PMの石川先生は、社会学博士である一方、パソコン黎明期から独力で視覚障害者支援アプリを作ってこられた、いわば異能者だ。SRでソースコードをピンポイントで探りつつ大規模なアプリを組むなど、私には想像もつかない。

(絵) 開発者A

UrumaDelvi Paint

 東大の五十嵐健夫助教授の開発した変形アルゴリズムをコアに、うるまさんがデザインしたアニメーションツール。溝の口の安達某氏のOpenGLライブラリ「TeBaSaKi」をUIベースに、Javaで書かかれている。IPAの未踏ソフトウェア創造事業に採択され、おかげで3年間、皆様の税金で飯を食わせて頂きました。私の担当は、五十嵐氏のソースを元に、見た目かっこよく、なんとか使えるアプリに仕上げることだった。

 結局、αテストに入ったところで真鬱になった私は、2週間を残して一方的に撤収してしまいました。ご迷惑をかけた方々に、この場を借りてお詫び致します。その後うるまさんは大ブレーク! 後悔の日々を送っている私でした… orz

FACE

 リコーの研究所が提案する印刷会社の業務システムを実装する仕事を請け負った。 もともとこの印刷会社には、プリマジと呼ばれる ASP.NETで書かれた業務アプリが動いていたが、もっと使いやすいシステムに置き換えようというわけだ。 Webアプリは初めてだったので、当初はJSP/JSTLを使ったり、JSFを試したりと手探り状態だったが、 REST風のURLをXMLの定義を参照してSQLに変換し、 UIは全てAjax+JavaScriptで処理する方法に落ち着いた。

 3月末の納期までに、なんとかひと通り実装できてほっとしている。これもひとえに、序盤の安達君、終盤のShinさんのサポート、 それにリコーの皆さんの熱い仕事ぶりとご声援のおかげだ。そして、楽しいお仕事を持ってきてくださった 構築屋の大山さん、ありがとう!

治験報告システム

 FACEのデータベース操作ライブラリを応用して、中外製薬の治験データベース検索システムを作った。 検索はSQLを使うだけの単純なシステムだ。もっと色々なシーンに使えそうだが、全て単発のお仕事で終わってしまうのが少し残念。

 今回、手書きの報告書をテキストに打ち込む会社の方と(MLで)やりとしたが、「こうすればもっと効率的なのに…」と感じる場面が多々あった。 ところが彼女らは一切受け付けず、頑なに手順を変えようとしない。「効率化=仕事を奪われる」かのような敵意を感じた。 実際に会ってないので私の思い込みかも知れないが…。

会計伝票(BillBoard)

 WonderWitchでお仕事した佐藤さんのアイデアで、飲食店用の会計アプリを作ってみた。 なかなか楽しい企画で、1年ほどかけて佐藤さんのお店 La stanza で使える程度には作りこんだが、残念ながらAppStoreに出品するまでには至らなかった…(涙)。 ただし、iOSやObjective-Cを勉強するとってもいい題材になった。

 iOSで一番感動したのは、UIKitのアニメーション機能だ。例えば写真のようなアイコン画面(これも手作り)で、 アイテムを追加/削除すると、開始・終了を指定するだけでアイテム(子window)再配置のアニメーションが自動的に起きる。

Spice

 毎度お世話になってる大山さんのお仕事で、Nikonの小西氏が研究する顔認識系アプリを作ることになった。 コンセプトは、「膨大な写真ライブラリを楽しく見せるソフト」だ。 顔検出+顔認識から母と娘の写真を並べてスライドショーしたり、映ってる位置と笑顔度から仲良しさをグラフにしたりする。

 顔検出と顔認識にはOpenCVのJavaラッパーJavaCVを使用。 顔検出はある程度使えたが、顔認識クラスは精度が悪くて使えず、結局1万枚近い写真を大山さんが手作業で登録した(笑)